2012/02/26

「安い」という選択肢

先日ノルウェーの物価が高い話をしまして(「ノルウェーやっぱり物価高い!」参照)、ノルウェーはとにかくなんでも高く、特に「安い」という選択肢がないのがツライ、というオブザベーションでした。しかし、私たちは「安い」ということに対してもう少し注意深くなってもよいのでは、と私は日々思っています。安いものを見たときに「安い!ラッキー」と思うところを、一歩下がって、「本当に安いのか」考えてみるのです。

私は去年の夏に日本に帰ったとき、スーパーで食品があまりに安くて驚いてしまいました。お豆腐や油揚げ、納豆などの大豆製品は1個100円以下。しめじ1パック100円(これは小千谷だったからですか?!)。「やっぱり日本はいいな~」と思った反面、私は少し心配になりました。こんな値段で採算がとれるのだろうか、と。

この値段の安さが、例えば新しいテクノロジーにより、今までよりも効率よく梱包ができるようになったから、などイノベーションが理由で値段が下がるのならいいのですが、しかしこれが、例えば工場で働いている人たちが残業代ナシで長時間労働した結果だったとしたら。例えば中国などから安いけれど安全性がいまいち怪しげな原材料を買ってきて作っているのだとしたら。例えば、派遣の人を沢山雇って人件費を削減してコストを抑えているのだとしたら。例えば農家の人が、これではもうやっていけない、と離農してしまったら。

社会に溢れるのは、長い時間休みなく働いて疲れ果てた人たち。働いても働いても生活が豊かにならない最低賃金で働く人たち。お金は稼げてもそれを使って人生を楽しむ時間のない人たち。安全な食べ物を食べてこなかったために、健康を害する人たち。契約を切られたら困るから、と悪条件の労働に文句を言えない派遣の人たち。農業するだけでは食べていけない農家。そして、そういう大人たちを見ながら育ってゆく子供達。たしかに納豆1パックの値段は安く収まるかもしれませんが、わたしたちはその他のところで安い納豆のツケを払っているのではないでしょうか。


これは経済学でいうところのソーシャルコストです。また別の例を出しますと、肥満や成人病は(全くの遺伝である場合以外は)個人の選択、例えば食べる物や運動量など、によって起こったり起こらなかったりします。「私は私が食べたい物を食べる」「運動するかしないかは個人の自由だ」というのはもっともな意見ですが、その人が成人病になったとき、それはその人だけの問題ではありません。なぜなら、その人の医療費や、また仕事ができなくなってしまった場合の失われた生産性などは、社会全体で支払うコストだからです。

個人の選択はこうして社会全体に影響を与えますが、個人の選択にソーシャルコストは加味されません。そこに、こういった社会問題の難しさがあります。経済学では、このソーシャルコストは個人のレベルでは解決できない、だからそこにソーシャルプランナー、つまり政策者が介入してこれらの問題を正す必要がある、と考えるのですが、いや、個人のレベルでもある程度解決が期待できる、という考え方も広がっています。例えばエコラベルがその例です。個人がエコラベルのある商品を選ぶことによって、集積的に環境問題を解決の方向に持っていく、というものです。エコラベルが付いている商品はそうでない商品より高いかもしれませんが、それは今まで払っていなかったソーシャルコストが加わった分高くなったわけです。そして、自腹を切ってでもこういった選択をする消費者は増えています。こういった一見道理に合わない選択をする消費者の行動を理解するのが私の研究の一環です。

さて、話をノルウェーに戻します。ノルウェーの物価が高いのは個人的に大変ツライです。人件費もちょっと高すぎるんじゃないの、と思うこともしばしばです。でも、これらの値段にはソーシャルコストも、全部ではないかもしれませんが、いくらかは含まれているのです。ノルウェーでばか高い商品を買いながら、私は少なくとも「これで採算が合うのだろうか」などどは考えなくてもいいのです。

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