2017/01/02

ノルウェー年末年始

明けましておめでとうございます。今年も皆様にとってよい年でありますように。

年が明け、お正月が元旦しか祝日でないノルウェーでは、さっそく3日から学校が始まります。冬休みですっかり夜更かしに慣れた子供たちが朝早く起きて眠い目をこすりながら学校に行くのは日本でもノルウェーでも同じなのではないでしょうか。

さて、我が家はこの年末はなかなか忙しい日々が続きました。なぜかというと、日本から友人一家が遊びに来ていたからです。私たちは、毎年クリスマスはいつも夫の実家で過ごしてきました。クリスマスは家族みんなで過ごすのがお約束のノルウェーでは
珍しいことではありませんが、私にとっては、夫の実家に行くことで今までクリスマスの準備を免れていたのです。なにしろ、クリスマスはいろいろご馳走を、しかも連日作らなければならないのに、お店が閉まってしまうので、何日も前から綿密な用意が必要です。そして、私は8年間ノルウェーに住んでいて、今までそういったクリスマスの準備をサボってきたのです。そして今年、とうとう自分の家でクリスマスを取り仕切ることになりました。義母は私がちゃんとノルウェー式のクリスマスを取り仕切れるのか心配そうですが、今まで義母のクリスマスに乗っかってきた経験から、一応どんなことをしなければならないかは心得ているつもり。

ノルウェーではクリスマスは一番のイベント。その準備は一ヶ月前のアドベントからはじまります。クリスマスの4週前の日曜日から、毎週キャンドルを一本ずつ灯していきます。そして12月1日からは子供たちはアドベントカレンダーを開け始めます。アドベントカレンダーは小さな箱や袋などを12月24日まで、一日ひとつ開けるようになっていて、中にはチョコレートやお菓子、アクセサリーなど、子供の喜ぶものが入っています。子供たちは毎日朝起きると真っ先にアドベントカレンダーを開け、何が入っているかを見つけるのです。こうして子供たちの期待感はクリスマスに向けて着実に上がっていきます。我が家でもIKEAで買ったカレンダーにいろいろ詰めておきました(写真右下のサンタはアドベントカレンダーです)。

クリスマスに向けて部屋を飾りつけ

また、家中にクリスマスカラーのテーブルクロスやらサンタの人形やら星の置物やらを置き、クリスマスのムードを演出します。さらに、毎年飾っている偽者の小さいツリー(写真上奥)に加え、今年は本物のツリー(写真下)も買いました!
クリスマスツリーは高さ2メートル

2016/09/18

アジア以外に住むアジア人の微妙で複雑な心境

ずいぶん前の話になってしまいましたが、友人がフェイスブックにリンクを貼っていたのは、ビミョーな人種差別についての記事(リンク(英語))。それは、アジア系アメリカ人である「私」が白人の夫と子供たちとともに夫の実家でクリスマスのディナーを食べているときに、親戚のおばさんに「あなたは、あのテレビ番組に出ているXXにそっくりね」とコメントされ、「私とXXとが似ている点は私もXXもアジア人女性であるということのみだ。白人はアジア人の見分けがつかないとはいえ、全員ひとくくりにしてしまう。これはそこはかとない人種差別だ」と憤りますが、それを親戚のおばさんにぶつけることができません。「私はこんなにいやな目にあっているというのに、それを大事ととらえているのは私ひとりだけのようだ。なぜほかの人は、これが人種差別とは思わないのか。なぜ夫は助け舟を出してくれないのか」と複雑な心境を語ります。そして、「この親戚のおばさんにはまったく悪意がない、ということは明白だ。この人は私を嫌な気持ちにするためにこのような間抜けなコメントを発したわけではない。この人は、そういったコメントは相手の気持ちを傷つける、という想像力がまったく働いていないのだ。」と分析します。

友人は、日本人、つまりアジア人としてアメリカに住み、アメリカの大学でパワフルに活躍している人です。しかし、アメリカのアカデミックの世界ではアジア人はあくまでマイノリティー。とくにアジア人の女性は全体として数は少ないと思います。そして、アジア女性であるがゆえに、アジア女性のステレオタイプ(例えば従順でおとなしく、与えられた仕事を黙々とこなす、というような)を押し付けられているところがあると見ています。しかし、従順でおとなしくて仕事を黙々とこなすような人ではアメリカのアカデミックの世界ではやっていけません。そうすると、そのギャップから、普通の男性教員がやっているようなことをしても、「イヤな女!」ととられてしまったりすることがあるようです。

私が、アメリカに住んでいるときに自分で見ていて居心地の悪い思いをしたのは、初めて会った人に出身地をきくときです。アジア人はアジアに住んでいると皆が思っているのか、アジア系アメリカ人の私の友達にも「君はどこの国の出身なの?」ときくのです。私は本当に外国人なので、別にそうきかれても「日本です」と答えるだけですが、アジア系アメリカ人の人は行く先々で、自分はアメリカ人である旨を説明しなければなりません。生涯アメリカに住んでいるのに、それをいちいち説明するのはよっぽどイラつく体験なのではないかと昔から思っていたのですが、そうしたら先述の友人がこYouTubeのリンクをシェアしてくれました(こちら)。英語の会話なのですが、アジア人の女性がジョギング中に白人男性に話しかけられる(ナンパされる?)シーンで、彼は「君はどこの出身?君の英語はすっごく上手だね!」ときいてきます。彼女はまたか、というイラついた表情で「サンディエゴ。サンディエゴでは皆英語で話すから。」と切り返します。すると、相手の男性は、「じゃあその前は?」と相変わらず聞いてきます。「えーと、私はオレンジカウンティーで生まれたけど、実際にそこで生活したことないから。」と答えると、男性はさらに「いや、その前だよ」「ええっ、生まれる前はどこにいたかですって?!」「いや、きみたち(Your people)がどこから来たのか聞いているんだよ。」「えっと、私の曽祖父たちはソウルから来たけど」「韓国人だね、やっぱりねー!いや、日本人か韓国人だと思ったんだよ!」そして、会話はその後アジア人女性が白人男性に同じ質問を切り返していく方向に進みます。私はそのビデオを見ていて、激しく納得しました。やっぱり、これはアジア系アメリカ人の間ではよくある光景で、それを彼らは大変ウザく感じていることがよく伝わってきました。これは、アジア人がよく遭遇するそこはかとない人種差別のひとつの例です。向こうは決して差別発言をしているつもりはないのですが、受け取る方としては、自分たち(白人)だって移民してきたのに、なぜ私たち(アジア人)は何世代アメリカに住んでも外国人扱いなのか!と憤るわけです。

2014/08/13

「女性の活躍できる社会」

せめて一ヶ月に一度はブログを更新するようにしよう、と思ってからはや半年。何かを続けるということは、大変なことなのだな、という実感を胸に、これからもぼちぼち続けていきたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。

さて、例年どおり7月の一ヶ月日本で過ごしました。一番の目的は娘たちに日本を体験してもらうことですが、私もできるだけ日本の社会についての情報収集をするように心がけています。そして今回、「もっと女性が活躍できる社会に」という話題をいたるところで目にしました。私も本当にそうなって欲しいと思っているのですが、どうやら現実はなかなか(というか、やっぱり)難しいようです。これは、単に「もっと女性を雇えばいい」とか「女性を昇進させればいい」という問題ではありません。もっと根本的に日本の社会構造に関わる問題だからです。そして、日本の社会構造は恐ろしいほど「男女の役割分担」を国民に押し付けているように思うのです。つまり、夫は外で働き、妻は家を守る、という役割分担です。

時代錯誤と思う方もいるかもしれませんが、そう考える若者は日本でもアメリカでも増えているようです。それが合理的である、という考え方もあります。経済学的に見て、比較優位で考えれば、得意な分野に特化した方が効率がよい、ということです。つまり、女性の方が家事・育児が上手であり、男性の方が労働市場で高い収入を得られるならば、男性は市場労働に特化して女性は家事・育児に特化するのが一番効率がよい、ということになります。役割分担自体は、決してそれ自体責められるべきものではないのです。しかし、なぜ男性の方が高収入を得やすいのか。それが、例えば女性は出産・育児でキャリアにギャップができる、もしくはキャリアがストップしてしまう、とか、女性ということで責任ある仕事を任せてもらえないから、という理由であった場合、それは女性が家事・育児に特化せざるを得ない状況を放置しているわけで、比較優位とか役割特化では片付かないと思います。

また、家庭の役割分担自体は性別に関係ない、つまり妻の方が高収入を得られる場合、夫が家事・育児に特化するのが合理的です。実際そうしている家庭もあると思いますが、それは少数で、実はそういう家庭であるほど、妻が家事・育児を担っているという研究結果も報告されています。これは、普通に経済理論で考えると不合理ですが、男のプライドとか、妻の「女らしさ」といった要素を加えると、説明がつくのです(興味のある方は経済学初心者でも読めるアカロフとクラントンのIdentity Economics(リンク)をお勧めします(英語))。つまり、本来夫が家族を養う(少なくとも一番稼いでいる)べきはずが、妻が一番の稼ぎ頭になってしまった場合、夫は男としてのプライドを傷つけられ、また、妻は「女は養ってもらうもの」という「女らしさ」を失うわけです。それを補うために、妻は他の「女らしい」行動である「家事・育児」を行って、夫のプライドと妻の女らしさを保とうとする。これにより、高収入の妻ほど家事・育児もする、という結果になってしまいます。そして、こんな疲弊する生活やってられない、と仕事をやめてしまう妻や、離婚してしまう夫婦が続出することになります。これらは、決して社会的にみて最適な結果であるとはいえないはずです。

また、労働市場は競争です。そして、日本では特に、労働時間で会社へのコミットメントを測るようです。そこで家事・育児を負っている女性に、後ろに専業主婦が控えていて主に仕事のことだけ考えていればいい男性と競争しろ(もしくは競争して勝て)と言うのは、ハナから無理というものです。土俵が違いすぎる。女性だって、別に特別扱いして欲しいわけではないと思うのです。ただ、公平に勝負できる土俵を提供してくれ、と訴えているのではないでしょうか。

2013/11/18

OECD訪問

先日パリに行って来ました。出張で。パリに行くのはこれで二度目ですが、前回は学会での発表が目的とはいえ、下の娘にまだ母乳をあげている頃だったので、下の娘と夫の母を連れて三人でパリに行き、私が学会に出席している間は夫の母に娘をみていてもらい、セッションの合間に授乳して、とかなりばたばたしていました。おかげで、パリ観光なんてほとんどできないままにノルウェーに戻ったものです。さて、今回はといいますと、主な目的は、パリのOECD本部でのミーティングです。OECDといえば、経済開発協力機構のことで、私も直接の関連はありませんでしたが、OECDからの統計などを引用させてもらうこともある国際機関です。

なぜOECDでミーティングなんていうことになったかといえば、大学院時代の同級生が最近OECDに移ったからです。フランス人の彼は大学院を卒業してからしばらくワシントンDCで働いていたのですが、最近一家で(同じくフランス人の奥さんと娘さんふたり)祖国に戻ってきたのです。そこに、同じく大学院時代の友人(世銀勤務)がミーティングをに来るというので、仕事の話をしつつ同窓会気分も味わえると、私も便乗することになったわけです。世銀の友人は仕事で実際重なる分野があるのでいいのですが、OECDの友人の方は、仕事では直接関連がないので、OECDの中で関連のある人とのミーティングをセットアップしてくれる、と言います。そして、私の「幸福度と労働市場に関する仕事をしている人と会いたい!」というリクエストに応えて、友人はいくつかミーティングをセットアップしてくれました。

OECDは、様々なレベルで様々な仕事をしていますが、私が特に興味があったのが「Better Life Initiative」という、よりよい暮らしを実現する上でのイニシアティブの展開です。その一部として、「よりよい暮らし指標(Better Life Index)」という、国内総生産や国民総生産のような経済成長の指標には必ずしも現れない、暮らしやすさのインデックスを作ったのです。(OECDのように何十カ国ものデータを処理して比較しなければならない場合、データが各国でばらばらに集められているような時には直接比較は難しいので、このよりよい暮らし指標はランキングにはなっていません。)その中にはワークライフバランスや男女格差など、私の興味のあるトピックも含まれているので、その仕事に関わっている人と会って話がきけるのは大変面白いと思ったのです。また、労働経済の分野でもこれらのトピックは扱われているので、そちらの分野の人にも是非話をききたいと思ったわけです。そして、前述の友人の紹介で、それらの方々とお会いできることとなりました。

さて、私の方でも、最近本格的にこの分野の研究を始めることにしました。分野としては専門外ですが、今まで消費者の心の中を探ってきた身ですし、一応、応用経済学者。応用する分野がちょっとくらい変わっても、経済学のプリンシプルは変わりません。念のため同僚の労働経済学者に共同研究をするということで了解も得て、準備万端。さっそく、ノルウェー人の幸福度について分析を始めた矢先だったので、このOECD訪問はまったくタイムリーでした。

さて、そういうわけで、パリでのミーティングに出向くことになったわけです。久しぶりに友人たちに会えるのと、OECDの訪問とで、この出張を大変楽しみにしていたのですが、その前に学会での発表が入っていたのと(幸いスタヴァンゲルでの学会だったので、少なくとも出張はしなくてすみましたが)二つ教えているクラスの期末試験がもうすぐであるのとで、もう目の回る忙しさの中、手ぶらでミーティングに行くのもはばかられるので、一応「私はこういう研究をしています」という話もできるように幸福度の研究をする時間もなんとかひねり出し、ばたばたとパリに旅立ったのでした。

そして、パリにのホテルにも無事到着し、翌朝スマートフォンのグーグルマップを頼りにOECDの本部に向かいました。近くのホテルを取ったので、徒歩15分ほどの距離でした。本部のビルにはでかでかとOECEと出ていたので、迷うこともなく一安心。しかし、さすがに警備は厳重で、入り口で荷物のチェックと金属探知機を通り、ビジターのバッジを貰い、友人を待ちます。そして現れたのは、ちゃんとスーツを着たまともな社会人。学生時代のカジュアルな格好しか覚えがないのと、自分の職場でスーツを着た人を見慣れていないので、ちょっと新鮮です。二重の自動扉を抜けて内部に入ると、なんだかオフィスというより、コンベンションセンターみたいです。実際、毎日のように様々な会議やらワークショップやらが催されているのだそう。そして、新しめなビルは、環境にやさしい様々なテクノロジーを駆使して10年だかかけて建てられたそうです。そして、地下通路を通って(多分)隣の建物に移って彼のオフィスへ。オフィスは普通でしたが、驚いたのはみんな留守でもオフィスのドアが開けっぱなしだったことでしょうか。それだけ安全だということなのか、そういうポリシーなのか。

ミーティングの合間に少し時間があったので、友人について会議のひとつに顔を出して来ました。その会議は、オランダの水の政策に関わる会議で、OECD各国の代表をはじめ、色々な機関やNGOの代表が、オランダの水政策に関しての意見を交換しています。日本からの代表の方も座っていました。このような会議が毎日いくつも行われているらしいOECD。国際機関って、こういうものなのでしょうか。

勝手にお邪魔した会議の様子。公用語は英語とフランス語。

2013/10/14

窓際に蘭の花

ノルウェー人のお宅にお邪魔すると必ずと言ってもいいほど見かけるのは、蘭の花。窓際にひとつと言わず、植木鉢がいくつも置いてあります。植木の蘭はものすごーく長持ちする上に、花が落ちてもまた咲いてくるので、一度買うとビックリするほど長持ちします。日当たりのよい窓際に置いてちゃんと水やりをすれば、普通に1年、長ければもっと持ちます。自分で買うこともありますが、人から贈られることも多いようで、引っ越した後の家族や友人の新居を訪れるときに蘭を贈ったり、また誕生日などのお祝い事にも贈られるようです。私も、初めて訪問するお宅には蘭を持っていくこともあります。また、どのお花屋さんでも、けっこうなスペースを蘭の鉢植えに割いてあります。

ウチの窓際にももちろん蘭の花が飾ってあります。
(ブラインドが閉まっているので分かりにくいかもしれませんが窓際です。)

日本人だってアメリカ人だってお花は好きですし、家にはグリーンの鉢植えが飾ってあったりしますが、こんなにたくさんの蘭の花を見た覚えは日本でもアメリカでもありません。なにしろ、どの家にも、例外なく、必ずひとつは蘭の鉢植えがあるのです。私がお邪魔したことのあるおうちだけでなく、例えば散歩のときに通りかかる道の脇の家々の窓にもたいてい蘭の花がおいてあります。最初はかなり不思議に思ったものですが、自分も蘭の鉢植えをいただいてみて、納得。蘭の花は綺麗で、見ていると気持ちが上がりますし、その優美なフォルムはモダンでシンプルなノルウェーのインテリアにマッチするだけでなく、白とかグレーとかのニュートラルトーンでまとめられがちな室内に明るい彩を添えます。そして、なにしろ手入れが簡単!私はグリーンハンドなどは持ち合わせておらず、どちらかというと、ちゃんと世話をせずに植物を殺してしまう方ですが(植物好きの方、すいません!)、蘭の花はそんな私にも寛容です。そして、馬鹿にできない生ゴミの量。花は他の食品ゴミと一緒に生ゴミ扱いですが、切花のブーケなどは、頻繁に花瓶の水をかえてもせいぜい一週間くらいしかもたない上に、枯れてしまった花を捨てるとけっこうかさばります。花を飾る、というロマンの世界の話なのに、ゴミの容量などという超現実的な理由を挙げるのもはばかられますが、ウチの地方自治体はゴミの収集が二週間に一度しかない上に、ゴミ箱の容量もそんなに大きくないので、けっこう切実な問題です。長持ちする蘭の鉢植えなら、切花に比べてゴミの量もうんと少なくて済みます。

2013/10/06

幸福って何?

「幸福って何?」なんだか青い鳥を探し求めているみたいですが、私は「幸福」とは何なのか、よく考えるのです。特にノルウェーに住んで、ノルウェーの不便さや物価の高さの裏には、ノルウェーなりの「幸福とは?」という問いへの答えがあるということに気付いてから、より幸福について考察するようになりました。

日本でも「幸福度」という言葉を耳にするようになりました。GDPなどに代表される経済成長を追い求めることが、必ずしも人を幸福にするとはかぎらないのではないか、という視点に立って、「幸福の向上」をひとつの指標にしていこう、という動きもあります。これは特に経済発展を成し遂げて、それなりの生活水準を手に入れた国の人たちが、「これからは、もっと量より質を重視した生活(クオリティー オブ ライフ)を送っていきたい」という気持ちのシフトが大きいかとも思いますが(ブータンは例外として)、ノルウェーはこの幸福度が先進国の中でも高いことで知られています。一方日本は先進国中でも幸福度が低い、という指摘がなされています。では、日本人は不幸なのか、といえば、「幸福度」とはそんなに簡単に比較できるものではないようです。「幸福」とは抽象的な概念であり、取り出して重さや長さを量れる類のものではありません。そして、まったく主観に基づいているため、傍から見てたいへん恵まれていると思っても本人は不幸である場合もあれば、反対に周りから見てどう考えても不幸だろう、というような人だって、本人は幸福であることだってあるわけです。また、そのときの気分にも左右されるので、日によって、または一日の中でも時間によって「幸福度」はくるくる変わったりします。

また、文化によっても幸福の捉え方はちがうようです。夏に日本に帰ったときにお会いした京都大学の研究者の方(幸福度の研究をされています)によると、日本人は、10点満点中、理想の幸福度は8点くらいなのだそう。日本人は、自分が10点満点幸福であると、例えばその後は下る一方であると怖くなったり、また、そこまで満足してしまうと、自分が驕ってしまったり、その後成長しなかったりする、という風に考える性質があるそうです。そうすると、10点満点中10点が理想と考える欧米人と比べて日本人の幸福度が低いのは単に文化的な違いによるところもあり、日本人がより不幸であるとは一概にはいえないことになります。

2013/09/23

統計のちから

夏に日本に帰っている間は新潟の実家にいるのであまり東京に行く機会はないのですが、京都に出張した帰りに、東京で久しぶりにシアトルの大学時代の友人に会いました。彼女は大学時代は建築を勉強していて、その後NYの建築事務所で働いたり、日本で建築の仕事をしたりしていたのですが、何年か前から東大の大学院で修士の勉強をしていました。東日本大震災のときには、ボランティアで現地に駆けつけ、その後も被災地に関する活動をしていたようです。そして、先日久しぶりに会ったときに、今はそのまま東大で博士課程に進んだのだ、ということを知りました。被災者と建築に関する研究をしているということで、今は論文のデータを集めたりしているようでした。その話をしたときの彼女の言葉が、私には大変印象的だったのです。

私は大学では経済学と統計学を学んだのですが、私にとって、統計学との出会いはある意味革新的でした。それまで、数学が大の苦手だと思って敬遠してきたのに、数学とも縁の深い統計学にハマってしまったのは大変な驚きであると同時に、統計学は私に新しい世界の見方を指し示してくれたのです。そして、統計学を勉強したことで、私は「データから情報を得る」という作業をその後もずっと続けることとなり、現在にいたっているわけです。私の仕事は大雑把にとらえれば、数字の羅列であるデータから、経済学的に興味のある事象を経済理論に基づいて分析し、数字の奥に隠れている、経済主体(消費者とか)の意思決定のメカニズムやその社会的な意味を探っていく、というものなのです。そういう意味で、統計は私にとっては大変に馴染み深いものとなりました。

そして、前述の、久しぶりに会った大学時代の友人は「ユウコが大学時代に統計を勉強していたとき、正直「なんでそんなもの勉強してるんだろう」って不思議に思ってたけど、今博士論文を書くにあたって、初めて統計の大切さがわかった」と言うのです。数学苦手のアート系だった彼女からそんな言葉を聞く日がくるなんて夢にも思わなかったので、私はひどく驚き、軽い感動すら覚えました。