2012/03/14

共通の経験という強み

先日は懐かしいアニメの話がでましたが(ピッピとゴレンジャー参照)、やはり子供の頃の思い出というものは、ソフトスポットというか、ついつい微笑んでしまう話題ですね。私が外国に住んで少し淋しいと思うのは、こういった子供時代や多感な時代の経験が共有できにくい、ということです。例えば、普通に日本で高校に行っていた人が、「ビバリーヒルズ高校白書」とか、もっと最近でいえば「グリー」とかみたいな、アメリカの高校生活を描いたドラマ(あまり普通の高校ではないにせよ)を見たとき、「へー、そうなんだ」とは思っても、あまり心から共感はしないのではないでしょうか。多少共通の要素はあっても、やはりあまりに世界が違いすぎる。

日本人でも外国人でも、共通項が多いほうが友達になりやすいのは同じです。そして、その共通項が現在進行形であった場合(例えば職場が同じとか、趣味が同じとか、子供が同じ学校に通っているとか)そのぶん今現在共有できる話題も多いですから、親しくなりやすいわけです。しかし、日本人同士で盛り上がる、子供時代や中・高校時代の話題の中で「そうそう!」と言えるあの感覚は、他ではなかなか経験できないものです。それは、今現在や近しい過去に関する「そうそう」と比べて何倍も濃い「そうそう」であるように感じるのは私だけでしょうか。

もしかしたら、単に私が外国に長く暮らしているせいで、そういう感覚の「そうそう」をあまり味わっていない、というだけの話かもしれませんが、私が思うに、子供時代や多感な時代というのは、社会に対してボノラブル、何というか、剥き出しの状態ではないでしょうか。例えば、子供の親への愛情というのは、駆け引きとかのない、とても剥き出しの、直球の愛情ですよね。子供たちはこの、後先、裏表のない直球の感情で世界に向き合っていると思うのです。そして、そんな剥き出しの状態で経験する世界というのは、大人になってからのコントロールされた現実とちがって、かなり直球でその人の中に入って行くのではないでしょうか。そして、その分、その次元で共有できる「そうそう」は、とても濃いものなのではないか、と思うのです。



けれど、私がこう思うようになったきっかけのひとつは、アメリカ留学時代、他の国の人たちとこの子供時代からの「そうそう」を体験したからです。何を通してかというと、子供時代にみたアニメです。日本のアニメは今でこそ日本の誇るソフトパワーということになっていますが、もっとずっと前から世界中に輸出されていたのです。なので、同年代の台湾人や香港人と、子供の頃見た「ドラえもん」の話をしたりできるのです。もっと驚いたのが、メキシコ人の元オフィスメートと子供の頃見た「キャンディーキャンディー」の話になったときです。男の子だったのですが、キャンディーキャンディーを見て育った者同士、ということがわかって、ぐっと親しく感じるようになったのを覚えています。

さて、私は子供たちにアンパンマンやプリキュアを見せていますが、それは、日本語の勉強に、というのももちろんありますが、日本の子供たちと、そういう子供時代の共通の経験をして欲しいと思うからです。今の日本の子供たちにとって、アンパンマンやプリキュアは、ソフトスポットになるはず。そして何十年か後になって、「そうそう」を引き起こすハズ。親がそうやって画策している時点でちょっと反則なかんじもしないではありませんが、共通項は多いに越したことはありません。

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