2013/04/28

博士過程学生という職業

やけにブログが滞りがちなこのごろですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私はというと、なかなかブログに向かう余裕がないのが実情ですが、理由のひとつには、博士課程の学生のセレクションのコミティー(委員会?)に参加するよう頼まれてしまったからです。

ノルウェーの博士課程はアメリカとは随分ちがう、という話は前にも書いたかもしれません。アメリカの大学院は、基本的に学生がお金(授業料)を払って通うものです。もちろん、様々な奨学金やアシスタントの仕事がありますが、つまりは何かしらの手段で働くなりしてお金を稼ぎながら授業料を納めます。私は州立大学に通う外国人だったので、何年州内に暮らしても州外者のステータスは変わらないまま(アメリカ人だと、一年その州に住めば州内者とみなされる)せっせと州外者の授業料を払っていましたっけ(州内者の3倍だったかな)。とはいえ、入ってくる学生の数は多く、最初の2年間は毎学期3クラスずつくらい授業を取ります。ひとつのクラスに少なくとも10人、多ければ50人ほどの学生がいたものです。しかし、最初の年が終わる頃、ミクロやマクロ、計量経済などの基本分野でプレリミナリーイグザムというテストが課されます。これは、通すことより落とすことが目的のテストであり、このテストに受からなかった場合は退学です。このテストは全部の科目で合格しなければならないわけですが、ひとつでも受かった場合は、他がだめでも、修士の学位が与えられるようです。

大学院では、もう死に物狂いで勉強したものです。休日も祝日も関係ありません。とにかく、学期中は勉強と、アシスタントの仕事でもういっぱい、いっぱいでした。独身で、子供もいない自由な身分であったので、どんなに勉強しようが特に問題はなく、ボーイフレンドはクラスメートだったので(今の夫ですけど)、二人で毎日、近くのカフェで勉強したものです。結婚している人や子持ちの人もぼちぼちいましたが、パートナーが学生でない場合は、オフなしの大学院生の特殊な環境は理解し難く、授業と宿題とパートナーと子供の狭間でか・な・り・大変そうだったのを覚えています。

2013/04/08

公共助け合い精神

ノルウェーで耳にする言葉にDugnadというものがあります。英語だとボランティアと訳されていましたが、つまりは個人がコミュニティーのために労働する、というのが一般的な解釈であるかと思います。日本でいえば、例えば町内会で川原の草取りやごみひろいをする、とかがノルウェーではDugnadとよばれるのではないでしょうか。しかし、このDugnadはどうやらもっと広い意味でも使われているようです。

例えば、私の職場には、みんなでランチを食べたり、コーヒーを飲みながら、だべったりする用のちょっとしたエリアがあります。そこには小さいキッチンもついていて、さすがに料理用のコンロなどはありませんが、コーヒーマシーンや電子レンジ、冷蔵庫もついています。また、食器もいろいろ揃っていて、コーヒーマグやエスプレッソ用のカップ、グラス、お皿などがキャビネットに収まり(食器がFiggyo製なのはやっぱりノルウェーです)、引き出しには沢山のカトラリーも入っています。ノルウェー人は一日に何杯もコーヒーを飲むので、毎日沢山のコーヒーマグが使われます。これらの使われた食器は、各自が食洗機に入れます。さて、このエリアはもちろんみんなで使う公共の場であるわけで、その分明確に誰かの責任下にあるわけではありません。そうすると、誰がいっぱいになった食洗機に洗剤を放り込んで始動させるのか。誰がきれいになった食器をキャビネットに戻すのか。誰がキッチンカウンターにこぼれている砂糖をきれいにするのか。これらは、Dugnadの精神の基づいて、ボランティアベースで気付いた人がすることになっています。偉い人はしない、などどいうことは起こりません。ノルウェー人はDugnadの前には全員平等であると信じているからです。私は学部長自ら、きれいになった食器を黙々と棚に戻すのを目撃しています。しかも何度も。そして、白状すると、私はまだ一回もやってません!


別の例をあげると、レンタルのキャビン。これもDugnadの精神に基づいていて、使った後キャビンをきれいにするのは使った人ということになっています。キャビンには必要最低限のものは揃っていますが、やはりスーパーに日用品を買出しに行かないといけません。そして、洗剤やキャンドルやトイレットペーパーなど、余ってしまった物はそのままキャビンに残して行きます。そうして、次の人に使ってもらうのです。自分たちも同じように、そうやって前の人が残していってくれた物の恩恵に与っているのです。